NBDモデル実践ガイド
目次
市場予測と顧客行動分析のための確率思考ツール
1. NBDモデルの基本
1.1 定義と理論的背景
NBDモデル(Negative Binomial Distribution Model)は、消費者の購買行動における回数分布を確率的に分析するためのモデルである。理論的根拠として以下の二つの前提が存在する:
- 個人レベルでは購買行動はポアソン分布に従う
- 市場全体ではプレファレンスの違いによりガンマ分布する
この二つの分布の複合により、市場全体の購買回数分布は負の二項分布(NBD)に従うことになる。
1.2 核となる数式
P(r) = [Γ(K+r)/(Γ(r+1)Γ(K))] × [K/(K+M)]^K × [M/(K+M)]^r
ここで:
- P(r) = r回購入する確率
- M = 平均購買回数(1人あたりの平均)
- K = 確率分布の形状を支配するパラメータ
- r = 購買回数
- Γ = ガンマ関数
1.3 パラメータの意味と解釈
- M(平均購買回数): 該当カテゴリーや該当ブランドに対する一定期間での平均購入個数。「1人(または1世帯)あたりの平均」を示す指標。
- K(ばらつきパラメータ): 購買回数に対する「個人差の大きさ」を示すパラメータ。Kが大きいほど「ばらつきが小さい」、小さいほど「ばらつきが大きい」と解釈できる。
- r(購買回数): 実際の購買回数(0回、1回、2回…)。
2. 実践的な分析プロセス
2.1 データ収集と前処理
- 必要なデータ:
- ID付き購買履歴データ(顧客ID、購入日、購入商品、購入金額など)
- 分析対象とする期間の決定(週次、月次、四半期、年間など)
- データ前処理:
- 異常値の排除(極端な高額購入や異常な頻度など)
- 期間内の購入回数の集計(顧客ID別)
- 全顧客の回数分布の作成(0回、1回、2回…の人数や割合)
2.2 パラメータの推定方法
- 直接計算法:
- Mの算出: M = 総購買回数 ÷ 対象総人数(または世帯数)
- Kの推定: 実測データから最尤推定法やモーメント法を用いて推定
- Excelを使った推定:
- 実際の回数分布データをもとに、ソルバー機能を使ってKを推定
- 目的関数: 実測分布と理論分布の二乗誤差の最小化
- 統計ソフトウェアでの推定:
- R, Python, SPSSなどの統計ソフトウェアを使用
- 専用パッケージやライブラリを活用(Rの場合はVGAM, MASS等のパッケージ)
2.3 分布フィッティングと検証
- フィッティング手順:
- 推定したMとKを用いて理論的な回数分布を計算
- 各回数(0回、1回、2回…)の確率を算出
- 総人数を掛けて理論上の人数を算出
- モデル検証方法:
- 実測値と予測値のカイ二乗検定
- グラフ化による視覚的検証(実測分布と理論分布の比較)
- 絶対誤差や相対誤差の算出
2.4 予測と活用
- 将来予測への応用:
- 期間の延長・短縮に伴う分布変化の予測
- 新規顧客獲得数予測時の将来回数分布の予測
- マーケティング施策による影響のシミュレーション
- セグメンテーションへの活用:
- ヘビーユーザー、ミドルユーザー、ライトユーザーの定量的定義
- セグメント別の特性分析と施策立案
- セグメント移行の可能性分析
3. マーケティング戦略への応用
3.1 市場浸透戦略の立案
- 水平拡大戦略(非購入者へのアプローチ):
- 0回購入者(非購入者)の割合を把握
- 初回購入障壁の特定と解消策の立案
- トライアルキャンペーンの効果予測
- 垂直拡大戦略(既存顧客の深掘り):
- 購入回数とLTV(顧客生涯価値)の相関分析
- 上位回数帯への移行を促進する施策
- リピート購入のタイミング予測と接点設計
3.2 プロモーションの最適化
- 効果測定の精緻化:
- プロモーション前後の回数分布変化の分析
- MとKパラメータの変化から真の効果を把握
- 一時的効果と持続的効果の区別
- リソース配分の最適化:
- 費用対効果の高いセグメントへの集中投資
- 回数分布改善効果の予測に基づく予算配分
- セグメント別のコミュニケーション戦略
3.3 商品開発と品揃え最適化
- 新商品開発への応用:
- 既存顧客の購買回数増加につながる商品企画
- 非購入者を取り込むための商品特性設計
- 購入回数増加による市場への影響予測
- 品揃え最適化:
- 購入回数帯別の商品選択傾向分析
- 購入頻度向上につながる品揃えの特定
- カニバリゼーションの回避と相乗効果の創出
4. 事例別実践ガイド
4.1 小売業での活用事例
- スーパーマーケット:
- 週間来店回数分布の分析と来店頻度向上施策
- カテゴリー別購入回数の比較と改善機会の特定
- 客単価と来店回数の相関分析によるLTV向上策
- アパレル:
- シーズン内購入回数の分析と追加購入促進策
- 季節間の購買行動変化のパターン把握
- 顧客の購入サイクル予測によるコミュニケーション最適化
4.2 サービス業での活用事例
- 飲食店:
- 来店回数分布からのロイヤルティプログラム設計
- 来店間隔の分析による施策タイミング最適化
- 顧客生涯価値予測に基づく投資回収計画
- サブスクリプションサービス:
- 利用頻度と継続率の相関分析
- ユーザーの利用パターン予測と離脱防止策
- フリートライアルからの転換率向上施策
4.3 USJでの活用事例
- 来園頻度の分析と予測:
- エリア別・年齢層別の来園回数分布分析
- ヘビーユーザーの特性把握と育成策
- 年間パスポートのプライシング最適化
- アトラクション設計と投資判断:
- 新アトラクション導入による来園回数変化予測
- 季節イベントの効果測定と最適なイベントミックス
- 来園頻度向上につながる体験設計
5. 実装のためのテクニカルガイド
5.1 Excelでの実装手順
- 基本設定:
- データの集計(顧客IDごとの期間内購入回数)
- クロス集計による回数分布表の作成(0回、1回、2回…)
- パラメータ推定:
1. M = SUM(購入回数×人数) ÷ 総人数
2. ソルバーの設定:
- 目的セル: 実測値と予測値の二乗誤差の合計
- 最小値を求める
- 変数セル: K
- 制約条件: K > 0
- 予測分布の計算:
1. r=0の場合: P(0) = [K/(K+M)]^K
2. r≥1の場合: P(r) = P(r-1) × [M(K+r-1)]/[r(K+M)]
3. 人数の予測: P(r) × 総人数
5.2 Pythonでの実装例
import numpy as np
import scipy.stats as stats
import pandas as pd
import matplotlib.pyplot as plt
from scipy.optimize import minimize
# データ準備(例)
purchase_counts = [0, 1, 2, 3, 4, 5, 6] # 購入回数
observed_freq = [62, 20, 4, 4, 1, 1, 8] # 各回数の人数(%)
total_customers = 100 # 総顧客数
# Mの計算
M = sum([count * freq for count, freq in zip(purchase_counts, observed_freq)]) / total_customers
# 負の二項分布の対数尤度関数
def neg_log_likelihood(K):
ll = 0
for count, freq in zip(purchase_counts, observed_freq):
p = stats.nbinom.pmf(count, K, K/(K+M))
ll += freq * np.log(p) if p > 0 else -np.inf
return -ll
# Kの最適化
result = minimize(neg_log_likelihood, x0=[1.0], bounds=[(0.001, None)])
K = result.x[0]
# 予測分布の計算
predicted_freq = [stats.nbinom.pmf(count, K, K/(K+M)) * total_customers for count in purchase_counts]
# 結果の可視化
plt.bar(purchase_counts, observed_freq, alpha=0.5, label='Observed')
plt.plot(purchase_counts, predicted_freq, 'ro-', label='Predicted')
plt.xlabel('Purchase Count')
plt.ylabel('Frequency')
plt.legend()
plt.title(f'NBD Model Fit (M={M:.2f}, K={K:.2f})')
plt.show()
5.3 高度な分析のためのヒント
- セグメント別分析:
- 顧客属性(年齢、性別、地域など)ごとのMとK算出
- セグメント間の比較によるインサイト発見
- セグメント別の予測と施策設計
- 時系列分析との組み合わせ:
- 時間経過に伴うMとKの変化トラッキング
- 季節変動パターンの特定と予測への組み込み
- トレンド要素と一時的要素の区別
- 多変量分析との連携:
- 購買回数と他の購買行動変数(客単価、商品カテゴリーなど)の関連分析
- クラスター分析との組み合わせによる多次元セグメンテーション
- 予測モデルの精度向上のためのAI/ML技術の活用
6. よくある課題と解決策
6.1 データ関連の課題
- サンプルサイズの問題:
- 小規模データでの対応: ブートストラップ法などの再サンプリング技術
- 推定の信頼区間算出によるリスク管理
- 少数データでの段階的アプローチ(まず大枠を掴み徐々に精緻化)
- ゼロ過剰データ:
- ゼロ過剰負の二項分布モデル(ZINB)の活用
- 非アクティブ顧客の定義と分離分析
- 構造的ゼロと確率的ゼロの区別
6.2 モデリングの課題
- 当てはまりが悪い場合:
- 対象期間の再検討(短すぎると偶然性の影響大、長すぎると構造変化の影響大)
- 異質セグメントの特定と個別モデル化
- 代替モデルの検討(別の確率分布モデル)
- パラメータ解釈の課題:
- 直感的理解のための可視化手法
- 実務者向けの簡易解釈ガイドライン策定
- 具体的なマーケティングアクションへの変換方法
6.3 組織的課題
- 専門知識の壁:
- 社内教育プログラムの実施
- 分析結果の直感的な伝え方の工夫
- 段階的な導入と成功事例の蓄積
- 経営層の理解と協力:
- 費用対効果の明示と短期成果の創出
- ビジネスKPIとの明確な紐付け
- 競合優位性としてのデータドリブン文化の啓蒙
7. 応用と発展
7.1 拡張モデル
- クロスカテゴリーモデル:
- 複数カテゴリー間の購買行動相関分析
- クロスセリング機会の定量的評価
- カテゴリー間シナジー効果の予測
- 拡張NBDモデル:
- 時間経過によるパラメータ変化を組み込んだ動的モデル
- 顧客生涯モデルとの統合
- 競合動向を考慮したゲーム理論的拡張
7.2 他のマーケティング理論との統合
- 顧客生涯価値(LTV)モデルとの統合:
- 購入回数分布を基にしたLTV予測の精緻化
- 顧客獲得コストと維持コストの最適配分
- 長期的な顧客価値の予測と投資判断
- マーケティングミックスモデリングとの連携:
- 4P施策が購入回数分布に与える影響の定量化
- 限界効果分析による最適ミックス設計
- 複数チャネルの相互作用効果の測定
7.3 デジタルマーケティングへの応用
- オンラインとオフラインの統合分析:
- チャネルをまたいだ購買行動の統合モデル
- オムニチャネル戦略の効果予測
- チャネル別の購入回数分布比較
- パーソナライゼーションへの活用:
- 個人レベルの購入確率と回数予測
- 最適接触タイミングと内容の決定
- カスタマージャーニー設計への応用
8. 実例計算ワークシート
8.1 基本データと計算例
例:パンケーキ購入データ(2週間・1000世帯)
回数 | 実測人数 | 実測割合 |
---|---|---|
0回 | 620 | 62% |
1回 | 200 | 20% |
2回 | 40 | 4% |
3回 | 40 | 4% |
4回 | 10 | 1% |
5回 | 10 | 1% |
6回+ | 80 | 8% |
合計 | 1000 | 100% |
M(平均購買回数)の計算:
M = (0×620 + 1×200 + 2×40 + 3×40 + 4×10 + 5×10 + 6×80) ÷ 1000
M = (0 + 200 + 80 + 120 + 40 + 50 + 480) ÷ 1000
M = 970 ÷ 1000 = 0.97
K(分布形状パラメータ)の推定:
最尤法やモーメント法により、K = 0.601と推定
理論分布の計算:
P(0) = [K/(K+M)]^K = [0.601/(0.601+0.97)]^0.601 = 0.383^0.601 = 0.62
P(1) = P(0) × [M(K+0)]/[1(K+M)] = 0.62 × [0.97×0.601]/[1×(0.601+0.97)] = 0.62 × 0.37 = 0.23
...
理論的な分布と実測値の比較:
回数 | 実測割合 | 理論割合 | 差異 |
---|---|---|---|
0回 | 62% | 62% | 0% |
1回 | 20% | 23% | +3% |
2回 | 4% | 6% | +2% |
3回 | 4% | 2% | -2% |
4回 | 1% | 1% | 0% |
5回 | 1% | 0.5% | -0.5% |
6回+ | 8% | 5.5% | -2.5% |
8.2 戦略立案のための分析
購入者比率:
購入者(1回以上)= 38%、非購入者(0回)= 62%
ヘビーユーザー分析:
3回以上購入者 = 14%、平均購入回数 = 4.29回/人
施策ポイント:
- 非購入者(62%)へのアプローチが市場拡大の重要ポイント
- ヘビーユーザー(14%)が全体購入の約60%を占め、維持が重要
- 1回購入者(20%)の複数回購入への移行が鍵
シミュレーション:
- 非購入者10%を1回購入者に変換した場合:
新たなM = 1.07(約10%増) - 1回購入者の50%が2回購入に増加した場合:
新たなM = 1.07(約10%増)
このワークシートは、NBDモデルの実用的な適用方法を示し、データドリブンな戦略立案の基礎となる。
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